幸い・幸せ・幸−幸せを語源から考える

  • 2017.11.14 Tuesday
  • 22:04

 

幸せがほしいと言う。
では、幸せとは何か。

語源から見てみるとおもしろいことが見えてくる。
といっても語源は確実ではないが、説として見ても十分おもしろい。

幸せは為(し)が合わせるというところから来ているという。
つまり、為されたことがぴったり合わさったところが幸せだということになる。
男女が好き合って、お互いが告白を為(し)てそれが合わされば、つまり両想いになれば幸せは成就する。
たしかにこれは幸せなことだが、自分の作為が成就されることが幸せだということでもある。たまたま相手の作為と合わさればよいが、作為的であることに変わりはない。

幸いのほうはというと、古語では「さきはひ」動詞にすると「さきはふ」、漢字にすると「咲き這ふ」となる。草花が咲き、それが地面に這って広がっていく。
ここには作為が見られない。個人の意思がない。

こうやって見ると、幸いのあり方の方がずっと素敵だと思われる。
今あることに不満を言わず、今のありようが幸いであるというように見られれば、現状如何にかかわらず幸いだろう。

ある宗教家が「幸いなことに私は結婚していません」と言っていた。
では結婚していることが不幸かというとそうではない。
していてもしていなくても、そこに差異はなく、幸いと見ればどの状態でも幸いなのだと言いたいのだろう。
これをその宗教家に心酔している者が、自己同一化を果たし、宗教家たる者、結婚していないほうが幸せだ、とみなすことは正しくない。

もう一つの幸(さち)は矢を表す「さつ」から来たようで、だから海の幸、山の幸というとのこと。

今ではどの言い方も大きな区別はないように見えるが、「私は幸せがほしい」というのは、「私は幸いがほしい」には置き換えられない。前者は望めば手に入りそうだが、後者は意思とは別物なので文法として成り立たない。
「幸いにも」は「おかげさまで」のようなニュアンスがある。自ら欲し、つかみとる類のものではない。

「私は幸せだ」は、自我中心の西洋的発想のように思える。
「幸いにも私は~」という幸いの中に自己が置かれているという言い方と対極的だ。
幸いが広がるのを願うばかりである。

 

ちなみに、幸いにも私はヤギと暮らしている。

 


 

 

JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

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