半眼の意味

  • 2016.05.27 Friday
  • 11:35
坐禅では多くは半眼で坐るとされています。
なぜ、半眼なのか。

仏像がそうだからというのが端的な答えのようですが、仏像も如来や菩薩は半眼ですが、それ以下の明王や天部となるとカッと目を見開いているものが多い。如来や菩薩もすべて半眼というわけでもないようですが、おおむねそうだと見ていいでしょう。
ということは、如来や菩薩の姿を手本としていることになりそうです。
半眼の理由として、一般的に言われていることは外の世界と内の世界を同時に見ることだと。
内に偏りすぎず外に偏りすぎず、ということだそうですが、どうもこれこそ理屈に偏りすぎのような気がします。

坐禅は釈迦が菩提樹の下で座っていた坐り方を再現したいようですが、どう坐っていたのかはわかりません。
ただ、苦行の後の坐なので悟ろうとかどうなろうとかいう苦しんで坐っていたのではないことはたしかでしょう。
とすれば、もっとも楽な坐相だったのであり、半眼がもっとも楽なのかということになりましょう。

静坐では完全に目を瞑ります。
半眼であることの理由というより利点に、頭がぶれないという記述を見つけました。
これはたしかに、利点だと思います。
静坐でも頭が垂れている人をしばしば見かけます。
前に傾きすぎるのは腰が立っていないためでしょうが、半眼であれば位置関係がわかるので頭が動くことはない。

また、眠気覚ましという説もあります。
目を瞑ってしまうと寝てしまうからというのです。
これも理解できる説ではありますが、半眼のほうが眠くなることもあります。半開きの口と同じことですからぼけっとしてしまう。

要は交感神経と副交感神経のバランスを腰腹で取るということが肝心で、どれが正しいかということではないのだと思います。
この方法が絶対だとしてしまうと、そこにとらわれてしまう。

呼吸法の話になりますが、西村公朝『やさしい仏像の見方』(新潮社)に次のような記述があります。
質問「菩薩の上半身は、胸部や腹部がとてもふくらんでいて女性かと錯覚するのですが?」に対して、
>菩薩は釈尊の王子の頃の姿がモデルですから、もちろん、胸部のふくらみなどは女性の乳房ではありません。あれは、アナパーナサチという釈尊の呼吸法を表わしているのです。 
 この呼吸法は、瞬間的に空気を吸い、時間をかけて少しずつ全部の空気をはき出すのですが、吸い込む時には、鎖骨の上のくぼみがふくらみ、はき出す時には、横隔膜が下腹部をおさえておなかがしまった感じになります。聖林寺の十一面観音や法華寺の十一面観音など、豊かな肉づきの仏像は、アナパーナサチの呼気と吸気を同時に表現しているのです。<
と答えています。



法華寺の十一面観音は光明皇后の似姿とも言われていますから、女性的なのは否めませんが、注目すべきは呼気と吸気を同時に表現しているという点です。人間には不可能なことですが、一体で表現するための苦肉の策というところでしょうか。
だとすれば、半眼もそうかもしれません。
内と外を同時に見る、哲学的には可能でしょう。内はすなわち外であり、外はすなわち内である、内も外も人間がつけた区別なのでとらわれずに見ることと言ってしまえば済む。しかし、半眼は実際にそうだったかはともかく、内も見る、外も見る、それらを一つの姿として像に表現したと考えればどうでしょう。
半眼や目を瞑る、開けるといったことにこだわる必要はないのではないかと思います。

様式は誰かがいかに楽に坐るかを求めて編み出された結果。そうして型ができるわけですが、創始者にはその型はなかったわけです。ですから、ある様式に従ったとしてもその様式に固められてはいけない。本来はすべては楽に坐るためだったということを忘れてはならないでしょう。修行は楽行であるべきで、苦行ではないのですから。

京都静坐会は明後日5月29日(日)10時半より伏見のマンヘイカフェにて。
どなたでも。
 
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