『静坐百訓補説』を読む

  • 2016.06.30 Thursday
  • 19:01

現在では静坐会に参加する者のみが見ることのできる『岡田虎二郎先生語録』(静坐社)だが、これは著作を残さなかった岡田が対機説法として特定の人に向けて語られたのをまとめたものである。

したがって、断片のみでその語られた背景はわからないことが多い。

 

岡田の弟子であった伊奈森太郎が戦後間もない昭和21年から34年にかけて月刊個人誌「うぶすな」を発行していた。

そのことは知っていたのだが、まとめて見る機会はないと思っていた。

これが意外や意外、田原静坐会でまとめられたものが平成に自家版として出されていたのを知り、まだ残っているとのことで3冊送っていただいた。

 

 

『語録』を教科書とすれば『静坐百訓』は参考書と位置付けられるだろう。

岡田をよく知る伊奈だからこそ、語録が語られた背景をわかりやすく述べてくれている実に貴重な記録である。

とにかくおもしろい。

 

一例として、

「86・坐の習慣」に

「斯事は茶の湯の師匠ならば、茶の湯の式に由りても出来、挿花の師匠ならばに由りても出来、学校の教師ならば学校の教授に由って出来る。若し又私が欧米にて斯事を行ふならば舞踏に由って出来るのである。然るに今静坐の形式に由るのは本邦古来一般に行はれて居る習慣を利用したものである。」

とあり、これは『語録』にも見られるものだが、この前に語った言葉があり、そちらのほうが興味深い。

「今の人が最も苦痛とするカシコマル形式をとって、これがアグラよりも横膝よりも一番楽であることをわからせることが、手っとり早い普及の方法と思って始めたのであるが、」とあり、「斯事は…」と続いていく。

最も苦しいと思う姿勢がもっとも楽なのだということをわからせるのが静坐だということ。

「お楽にという悪魔の言葉に一切が破壊される。」と『語録』にはあり、アグラや横膝の姿勢のことを指す。

 

伊奈は次のように述べる。

>私の小さい頃には老人の中に、客に対して「おろくにおすわりなさい。と挨拶をする人がおりました。「おろくに」とは正しくということです。正しくない人を、ろくでもない人とか、ろくな奴ではないとかいうのと同様でろくは正であります。処が今日では正しく坐ることが苦痛になったから、おらくにお坐り下さいと、正しく坐っている人に悪いすわり方を勧めるようになりました。おろくがおらくのなまりおとばの様に思う人がありますが、とんでもないことです。<

ろくでなしの由来を調べると、一般に「碌でなし」と書くがこれは当て字らしい。本来は「陸でなし」。陸は呉音でロクと読む。

陸は平らだから陸でなしは平らでない、まっすぐでないことを言う。これははじめて知ったことだが、実におもしろい。

「おらくに」と「おろくに」は一字違いで天地の差が生じる。

「ろく≠らく」が「ろく=らく」になるところのものが静坐であると言えるだろう。

静坐によってろくとらくの意味が変容する。

 

話は変わって、岡田の生まれた田原では渡辺崋山を輩出した。

しかし、岡田は「渡辺崋山の碑が一丈ならば磯丸のために百丈を建てよ。磯丸を研究せずしてソクラテスの研究がおかしい」という。磯丸とは江戸時代の田原で漁師であった糟谷磯丸のことである。磯丸は短歌を多く作り、深い含蓄をもった歌で学者や専門の歌人でないところがいい。浄土真宗でいうところの妙好人のような存在だろう。

岡田が磯丸を高く評価したこともあり、『磯丸全集』が編まれたが今は絶版になっている。古書では手に入る。私も入手したのでこれから少しずつ味わっていきたいと思う。岡田と同じく現在知る人はまずいないが、読まれれば復活するのである。

 

はじめに述べたように、『静坐百訓補説』がもう2冊手元にあります。

ご希望の方はお申し出ください。

 

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